マネージャー観戦記
2002年夏の甲子園富山県予選準々決勝<新湊-高岡第一>
センバツ出場左腕、新湊の荒瀬投手(現法政大)春夏連続出場果たせず
日韓W杯が開かれたこの年、富山県の高校野球界に彗星の如く現れたサウスポー投手、新湊高のエース荒瀬投手の活躍に私は注目していました
新湊高といえばかつて1986年にセンバツ大会で県勢初のベスト4進出を果たし、”新湊旋風”を巻き起こしたことでつとに有名です。その新湊高に有望株として入ってきた荒瀬投手は貴重な左腕本格派と期待され、一年時から公式戦にも度々登板し、早くも2年時にはエースナンバーを背負っていました。入学以来、速球派左腕として直球でぐいぐい押すピッチングを身上としていましたが、エースとして挑んだ県予選ではその直球を打ち込まれ、結局2年時には甲子園に手が届きませんでした。
そして三年生が引退し、新チーム結成後から直球に対するこだわりを捨てて緩急を使う組み立てに切り替えたところ、これが効を奏し2001年の秋季北信越大会決勝まで勝ち上がり、惜しくも福井商に敗れたものの、16年ぶりのセンバツ出場を果たしたのでした。そして迎えた2002年春。あの快進撃よ再びとの新湊市民の期待を背に甲子園に乗り込んだのであります。
初戦の相手は愛知の名門校、イチローの母校でもある愛工大名電でした。16年前も初戦は愛知の強豪校、享栄でしたがこの偶然の一致に触発されたわけでもないのでしょうが、荒瀬のピッチングは冴え渡り相手の強力打線を一失点に抑え、また自らのバットで決勝点をたたきだすなど投打に渡る活躍で、前回の出場に引き続き初戦を僅差で制して、新湊市民はもとより富山県民を歓喜の渦に巻き込んだのでありました。
そして迎えた二回戦。相手は香川の名門尽誠学園です。この試合、またしても荒瀬の左腕が冴え渡ります。キレのいい直球とカーブが面白いように決まり、初戦の愛工大名電戦を上回る快投を演じます。しかし尽誠学園の投手も好投を見せて、試合は両軍無得点のまま九回表を迎えました。ここで八回までほぼ完璧な内容だった荒瀬の投球が突如として崩れ、先制を許してしまい結局九回裏の反撃も及ばす惜しくも敗れ去ったのでした。
試合には敗れたものの鮮烈な印象を残した荒瀬の評価は高く、大会随一の左腕と言われる程でした。
そして夏、再び甲子園に戻るべく全国選手権富山県予選に挑んだのでした。大会序盤を順当に勝ち上がって準々決勝にコマを進めたのですがここで、県内では強豪の一つに数えられる高岡第一とぶつかったのです。私はいよいよここからが予選のヤマ場であると感じ、県営富山球場へ向かいました。
県営富山球場と他のもう一つの球場に分かれて富山県予選の準々決勝は行われるようで、新湊は第二試合に登場するようです。しかし第一試合の砺波工-氷見戦が延長十五回引き分けまでもつれて試合は予定時間を大幅に過ぎて始まりました。
なにはともあれ、初めて見る生の荒瀬投手はどんなものだろうと期待しつつ観戦に入りました。身長はそれほど無いのですが周りの選手よりも体格は明らかにしっかりしていて、マウンドに立つと大きく見えます。
そして肝心のピッチングの方は立ち上がりから球を丁寧に低めに集めているようです。しかし本来ならMax136キロの直球にもさほど速さが感じられず、技巧派に転向したにしても今日は調子が悪いのかなと感じました。
直球自体はもしろ高岡第一の投手の方がやや速いかなという印象です。そして序盤から荒瀬は見方守備陣のまずさもあって相手に得点を許してしまい、少し嫌な流れの中で試合はスタートしました。
新湊も中盤に丸山捕手の本塁打などで一時は同点に追いつくのですが終盤に再び突き放されてしまいました。もともと打線の強くない新湊は頼みの主砲でもある荒瀬のバットも、一度、中堅手を越えるフェンスぎりぎりの惜しい大飛球がありましたが火を噴かず、苦しい展開のまま試合は進んでいきます。さらに安打性の打球が野手の正面をつく不運などもあり、新湊打線は終盤の好機にもあと一本が出ずに、まさかの敗戦を喫し、春夏連続甲子園出場を果たすことが出来ませんでした。
しかし本来のピッチングではなかったにせよ荒瀬投手の悠然としたマウンドさばきはやはり只者ではないと思われました。バッテイングもいいので恐らく手首と背筋はかなり強いのではないかと思います。法政大に進学してからはあまり活躍ぶりが伝えられないようですが、2005年には三年生になり、これからは六大学リーグ戦などでマウンドに立つ機会も増えればと影ながら活躍を祈るものであります。